大晦日を迎えて


いよいよ間もなく…、平成29年、西暦2017年、皇紀2677年という一年が過ぎて、新しい年を迎える。

 

 思えば、一日は、午前零時を境に日付が変わる。

 

 だんご虫は、時々へそ曲がりなので、…昨日も今日も明日も…、「日々新た…」などと、それが自分の一生と何のかかわりがあるのか?…などと考えたりする時がある。

 

しかし、不思議なもので、「時」の移ろいとともに、昼夜の区別のない世界には、生命(いのち)の営みは考えられないのである。

 

そうなんだ! …「時」が無限なものとして存在するためには「円」でなければならないんだ!

 

小学生にも考えられそうなことが、この「大晦日」を迎えてあらためてしみじみと思わされる。

 

宇宙と私

20171012()

時間と共に存在する「宇宙」。その「宇宙」を認識する「私」。

 

従って、全ては、「時」と共に存在する。

 

ゆえに、「私」もまた、その「時」と共に存在する。

 

「時」は止まることなく、「時」の無い「時」はない。

 

その「時」と共に存在する「宇宙」を認識する「私」という存在は、ゆえに「宇宙」と一体となった存在である。

 

 その「宇宙」の中の「地球」。

 そこに生まれ、同じ「時」を共有しつつ歴史を刻み、今を迎えている人類の一人が「私」である。

「死」とは、「私」という存在が、この宇宙から消えることである。

 ならば、この「宇宙」もまた消えてなくなるのであろうか。

 

決してそのような事はあり得ない。

 

もしもそうだとするならば、他人の死とともに、自分が存在する「宇宙」もまた無くならなければならないからである。

 

従って姿形あるものは壊れ、腐食し、あるいは燃焼して消滅し、「私」と言う存在もまた消滅したとしても、この「宇宙」は存在する。

 

「時」と共に。

万物は、生成と消滅を繰り返す。

 

この地球と言う惑星に、「私」は生まれ、この天地風水によって、時を同じくする世界の人々と、「私」は命を分かち合っているのだ。」

 

と書き記した自分は、2カ月以上前の直線のかなたに存在しているのではなく、今このブログに向き合う今の自分の中に存在しているのである。

 

「時」と共に存在する生命の営みもまた「円」として…その寿命が尽きるまで続いてゆく。

 

「過去」は、決して一直線のかなたに消え去ってゆくものではなく、…永遠に今現在とともに存在し続けてゆくものなのだ…。

 

…そう思った時。

…つくづくと…国家や社会の営みを考える時、「自分たちさえよければそれでよいではないか!」…ということをつい考えてしまう自分に、半ば暗然としながらも、…「決して、決して今現在の自分たちだけのものではないのだ…」、というその戒めの時として、今日と言うこの大晦日を迎えることができたことを、改めて肝に銘じつつ…。

 

また新たな気持ちで、…来るべき新年を迎えようと思う。